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立場を変えるとあら不思議

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演劇的30年越え、演技コーチの鍬田かおるです

本日も、一般的な意味での良い悪いはさておき

演技について考えるためにヒントを書いてみます

小説を読んだり、エッセイを読んだり、映画を見たりするときに誰の立場から描かれているかを意識したことありますか?

 

例えば自分の日記でも、自分の立場から読めば、共感できる内容ばかりですし、同感できる意見ばかりで、ごもっともなことばかりなのですが(自分が当事者だから)

そこに登場してきた相手の立場から読んでみたらびっくりな言いがかりや、あまりにも飛躍した不思議な発想や、理解しがたい解釈がちりばめられていることでしょう(笑)

誰が書いた脚本なのか、誰の目線をつうじたカメラワークなのか、それだけでも読み取りがだいぶ違ってきます

世界の巨匠ですら、白人であるとか、男性であるとか、もちろん、当時の社会で優遇されていた階級や職業の家庭に生まれているなど…そこからの発信でしかあり得ないのは、一種仕方がありません

そして、そんなに深刻な内容ではなくても…

例えば恥ずかしいと思うようなイベントも、立場を変えてみれば面白おかしかったり、滑稽だったり、または取るに足らないことである可能性もあります

劣等感に満ちた記憶ですら、もしかすると他人をそれほど見ていなかったかもしれないし、忘れている場合もありますよね

 

当然逆も然りで

まさか立場を変えてみたら相手がそれほどまでに孤独感でいっぱいだったとは全く知り得なかった、想像もできなかったと言うような状況もあると思います

台本をもらって読んだときに「私だったらどうするだろう?」を最初につい考えてしまうのは構わないのですが、それは印象を持って、ただ感想述べているのと変わりません

それよりも

「これらの(実際に台本の中身に書かれている)行動を起こしたりこれらの文章を言いたくならざるを得なくなって、出ちゃうためには、どんな中身なんだろう、どんな内面なんだろう、何をしたらいいんだろう?」

と、本当の意味で自分事として置き換えるプロセスを使ってください

 

「私だったらどうするだろう?」は自分事にしてるようで、実はヤジウマ的なんです

だって、この役の人物と言う他人はあなたじゃありませんから

 

ただ、台本の中に書かれている言動は結果としてやることが決まっているので、つまり起きることが決まっているので起きていることを起きないかもしれない、起こす理由がないかのように突っかって行くのは、自分がキャスティングされた薬の人物を、批判したり疑ったりしてるのとほぼ同じなんです

前回も書きましたけど、まず起きてることを事実としてそうなんだね、そういう人もいるね、そんなこともあるよねと認めるところからスタートします

ともすると、きれいごとのように聞こえてしまうかもしれませんが

ご参考にしてください

皆様の活躍情報や、近況もお待ちしています

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最近、改めて読んで嬉しかった一冊

結局、本質に種類はあまりない

 

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