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「伝わらない」と「わからない」を解決するには発声発音と滑舌?!

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新年度ですね、引っ越しをされたり、新しい職場や所属になった方々、お疲れ様です。

春はいつもにも増して探究心が沸く、演技コーチの鍬田かおるです。

 

4月22日、23日の土日クラスにお申し込みの方々は、ご予約ありがとうございます。

 

今日はちょっと気になる「発声発音と滑舌なのか否か問題」です。

性質上、映像はもちろんのこと(マイクでひろうにしても)、特に音楽劇やミュージカル、そして会話がとっても気になる演劇では、発声や発音、滑舌が話題になることもしばしばです。

お客様やスタッフ、演出からも、立場からすれば、

 

・よく聞こえなかった

・何を言ってるのかわからなかった

・どういうことなのか、ついていけなかった

 

と言うようなものは、避けたく、また演じる側もそうならないように「伝えよう」、「分かってもらおう」と言う狙いがあるのも当然だと思います。

そこで、もちろん、みなさんほとんどの方は真剣ですから、発声を見直そうとか、声の音量を調節しようとか、それこそ、発音を明瞭にしようと練習し、滑舌の練習なるものを定期的になさっている真面目な方も多いです。

それらは大変有効ですし、素晴らしいものがほとんどだと思います。

 

今日の私のポイントは、そういった練習内容と指導方法ではなく、

そもそもの「伝わらない」、「わからない」についてです。

この2つは似て非なるものですから、まず分けて考えましょう。

 

■「伝わる/伝える」のこと

「伝わる」ためには、伝わるための何かをせねばなりません。

もちろん、見えて聞こえて、何かが自動的に受取手の補正機能のようなものによって、特定の意味やかけていた音が補ってもらえたり、連想などによってうまくこともあります。

ありがたく、「伝わった」こともあると言う事ですね。

日常生活でも同じで、ズバリ!そのものを流しされなくても、目線やジェスチャー、表情の変化、声のトーンや高低、身体の向きや身体のあちこちの部位の筋肉の緊張や弛緩の様子で、「怒っているかも」、「困っているみたいだな」、「ほんとにうれしそう」などと伝わることがたくさんありますよね。

という事は、もしかすると、フィクションの世界でもそれは起こり得るのではないですか?

 

実際、私たちはまだたどたどしい喋りの子供の訴えていることが伝わってくる時もありますし、必ずしも文法が正しくなく、滑舌が良くなくても、内容が伝わることもあります。

そうなんです、せっかく発声を改善し、発音を工夫して、滑舌が良かったとしても、中身が動いてなければ何も伝わらないんです。

ただ、国語の意味が、受け手によって解釈されながら、思考として伝わってくる…

お客様の立場からこういった体験は無いでしょうか。

私は…

日本だけでなく、演劇や舞台の本場と言われるイギリスでもあります。

とにかく、感情がわからない。

動機や意図もわからない。

情緒や気分も想像できない。

だから、言語以上のものが「伝わらない」。

言語と相反する中身や葛藤している時のような場合、さらに「伝わらない」

 

感情がうごいているはずが、動いておらず、なぞっているような、説明してくるような不思議な重さはある。

本来であれば、気持ちや感情などと呼ばれるようなもので、当事者はいっぱいになっていて、その1部が漏れ出てくるのだと思います。

実際の生活では、そうですよね、すべてが伝わることもないし、全部ぶちまけきった、と言うことも、よっぽどの災害や事故でない限り、成人では少ないでしょう。

 

それなのに、作品となると、思考の流れが把握できていて、状況があれば、何となく気持ちが動き始めた位で、すぐ喋ってしまう。

多くの場合、台本におけるセリフと言う形で、先に文章をもらってしまっているので、なおさらそうなります。

そもそも当事者であるはずの本人があれもこれも「感じてない」のだから「伝わりっこない」となります。

 

■「わからない」について

特定のシーンで役の人物が考えていることが「わからない」と言うのは、おそらく行動や感情以上に思考に関すること、が多いようです。

「理解ができない」「飲み込めない」、場合によっては「納得できない」と言い換えると近いかもしれません。

往々にして、私たちは意味を見いだす性質があります。

連想もしますし、過去の記憶もあるわけで、また新しく想像もしますから、意味の連鎖になります。

 

状況がそこにあっても、思考の流れがごちゃまぜになったまま、にごってといいますか、いろんなものを明らかにしないまましゃべると、国語の意味はわかるのだが、そして発音や滑舌には問題は無いのだが、さっぱりわからないと言う現象が起き得ます。

私も、残念ながらこういった体験があります。

出演者全員が非常に声もきちんと出ていて、発声も悪くなく、発音も一般的にはかなり上のレベルで、大量のセリフを、その状況に合ったトーンで、かなり雄弁に語っていました。

しかし!

さっぱり「わからない」

1時間経ったが、なにもわかりませんでした。

なぜでしょう?

私の考えですが、おそらく1つ目の感情が不明だからだと思います。

動機や意図に支えられる、もう一つの要素である感情/気持ちが、強い目的に向かって、推進力を伴っていないのに、思考/論理がそれほど必要になることが奇妙なんです。

奇妙でない設定になっていたとしても、違和感が残り、思考と感情とが、1人の人間の中に常にあるはずなのに、活発でない時間があると、現実の人間とは違うので、多くの方が気づくものです。(たとえそれを説明することができなかったとしても)

また、劇/ドラマと言うものの、性質上、渦中にいる当事者は、ある意味、感情的な生活も、思考も、凝縮された時間に存在しているわけですから、日常とはかなり似ていて混乱する作品も多いですが、やはり非常に性質そのものから異なり、

「めくるめいている」んですね。

だからこそ、感情も思考も両方が、どのようなもので、どこから来て、どこへ向かっているのか、それは何のためなのか等が(ある程度は)、明かされてゆくものが、現代の「共感と同調の仕組み」を使った演技には、多くの場合、好ましいと考えます。

私たちは動いているものに注意を向ける性質のある動物だから、感情も思考も活発に動いていて、移動していくのです。(直接的には見えなくても)

 

■そもそも気をつけたい前提

「伝わらない」、「わからない」問題の上の内容ではなく、念のため前提も書いておきます。

1つ目は、あまりにも当たり前の感がありますが、

・「鼻づまり」

声のメンテナンスは喉の話だけではなくて鼻も一緒です。特に、今の季節は、もうすごく乾燥しているので、アレルギー含め皆さんどうぞ医師と相談して対策なり何なりお願いします。

・喉/声帯の疾患や姿勢

これも同じく、おまじないではなく、医療の力が必要です。無理せず、医学的、科学的にお願いします。

トレーニングやレッスンで使い方を変えて予防することができますが、既にできてしまったポリープや炎症を収める事は難しいです。必ず専門医に診てもらうようにしてください。

・口呼吸の癖/息もれ/ため息セリフー過緊張と過度な脱力

上の2つの事情にともなうこともあるのですが、そしてその原因にもなり得るのですが、口呼吸はやめましょう。

空気は、ほとんどの場合、汚く、冷たく、乾燥していて、鼻フィルター!を通す必要があります。

大きなほこりや塵を避けることと、息を温め、湿らせる必要があります。

 

残念なくせに、「息漏れ」もあります。

ニュアンスを出そうなどと言う不可思議な考えが優先して(ニュアンスは伝わるもので、出そうとして押し出すものではありません)、喉回り、胸周りをつぶして、息が漏れやすい姿勢になっている方もよく見受けます、やめましょう。

息が外に出なければ当然、すばらしい内容でも伝わりづらく、わかりづらく、したがって単純に音声として聞こえづらくなります。

 

同じく、「ため息でセリフを言う」のも、男女ともにある傾向ですが、やめましょう。

男女ともにある傾向ですが、やめましょう。

1つのシーンでため息をつく回数は、よっぽどの事情やそういった設定がない限り、多くても1回位であると推測します。

役の癖だからといって、それを毎回必ず、あらゆるシーンで、必要以上に繰り返す必要もありません

。胴体を縮こめたり、身体を窮屈にして音が変わるのに、頼ろうと言う方も残念ながら、未だに見受けられます。

しかしながら、身体が苦痛だから出せる音は似通っています。

感情や思考が変わり、それにつれて呼吸が変わって、と言う流れがいいと思います。日常の私たちと同じ仕組みです。

声を出しにくくして、個性を出そうとか、身体を窮屈にさせることで、呼吸に変化をつけようと無理する事は、機能的にもよろしくありませんし、「使えない部分」が増えてしまうので、「まるごと演じる」にはつながりません。

「まるごと使って」いても、足りないなぁと思う難しい役や名作と言うものも数多くあります。

くれぐれも、ご自身が能力を発揮できなくなるような、身体の不利で感覚が鈍くなるような方法を継続的に選ばないよう、練習から、習慣を付けてください。

 

■そもそも💣

恵まれているはずの発声や発音、滑舌に何ら問題のない人で多いのが、流暢に、また非常に雄弁に、大切であろう内容を、非常に良い声で、ペラペラと喋ってしまうと言う傾向があります。

朗唱や朗読の延長で考えると、「聞こえやすくていいじゃないか」、「聞いていて、気持ちが良い」、「良い声が最高だ」と言うご意見もあるのは承知です。

ただ、私がここで問題にしてるのは一人称で語り行動することであり、会話であり、対話です。

 

ご自身の、日常生活の例を考えてみてください。

例えば、自分に何か緊急の用事がある時、それこそ、とっても重要な内容の場面で、

それほどまで言いたいことを、言いたいように、思い通りに、スムーズに、つっかえずに、朗々とお聞かせして、響き渡らせて、次々と語れるものでしょうか。

私はよく滑舌が良いと言われますが、大事な内容ほど滑舌は素晴らしくありません、重要な時ほど滑舌は…まぁ、イマイチです。

 

何が言いたいのかと言うと、

作品の中で、役の当事者たちは、1種の「しゃべりづらさ」、「言葉にしづらさ/文章にすることの困難さ」も内包していると言うことです。

そりゃそうです、劇/ドラマなのですから。

 

ほとんどの場合、緊急かつ重要なことが話題にもなり、また行動にもつながっています。

そうです!

そもそも話づらい内容であるはずで、喋りづらい状態でもあるのです。

そこで、当事者の息遣いで、一人称でしゃべる技術というものが、想像力や意味づけと同じく、必要になるのです。

 

本日のおすすめ

私がいま、一番楽しみにしている読書リストのトップです。

読み終わった方のご感想も知りたいです。

 

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4月22日& 23日の土日の身体の感覚をあと2名で締め切りです。

事前の準備や特別なものは必要のないクラスですが、どうぞお早めにご予約お願いします。はじめての方は必ず、近況や活動の様子、自己紹介などプロフィールとともにお送りくださいね、お会いできるの楽しみにしてます。

 

4月の土日クラスだけでなく、クラス開催のご希望や個人レッスンなど相談したいこと、ちょっと話を聞いてみたいと言う方には、オンラインでのヒアリングも実施中です。各種メッセージやお問い合わせフォームからお願いします。Instagramでもミニ相談やっているので、のぞいてみてくださいねー!

 

 

ちなみに…..

公式LINEもございます、トークからご一報ください、場合によってはチャットや通話でのご相談もアレンジ可能です。

 

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