「信じられるいい演技」
「説得力があって面白い俳優」
「存在感があって、ついつい夢中になる優れた演技」
形容するのはカンタンですが、先輩も大御所も、プロもアマチュアも頭をよぎるテーマです。
演技コーチ鍬田かおるの師匠たちの若かりし頃は「一声、二顔、三姿」などと言われたらしいのですが、最近はどうなのでしょうか?
最も重要な演じるためのスキル、パフォーマンスのための要素はなんだろうか、と聞かれることも、職業柄か多いです。
それこそ、ジャンルであったり、キャリアのどの時点であるとか、千差万別人と思いますが、私が40年学んで試して、研究する限り、
「自分ごとでしゃべる」
が数ある魅力的な演技の要素のうちの、一つの大きな柱だと感じます。
そうです。
「セリフ」を雄弁に、流暢に語る
のではなく、
「大切なセリフを気持ちをこめて」、「大事にして、言葉に思いを乗せて伝える」
でもなくて、
「一人称=自分ごとでしゃべる」
これがいい演技の柱だと思います。
これは私独自の屁理屈でもこだわりでもなく、欧米の一流の5本の指に入るような演劇学校や国立劇場などの養成機関や関連するスタジオで、
耳にタコができる!ほど繰り返し表現をかえて、しつこーく指摘されることの一つでもあります。
これができていないと「きれいに、いい声で『セリフを』言っていた」と毒舌をいただく。
ここが越えられていないと「『セリフ術』はいいんだけどね….」とお茶を濁される。
辛辣ですが、素人でさえ「なんか白々しいよねー」、子どもですら「つまんなーい」と叫ぶのです。
しかし、シェイクスピアの流れをくみ、どうしても朗々と語りがちなイギリスは、日本の「セリフを大切そうに、わかりやすく、気持ちをこめて聞こえやすく、いい声で大事そうに言う」にそれでもまだまだ甘いほうであると、私は感じます。
アメリカのスタジオ、情け容赦なく、「しゃべって!まず」💢「セリフは結果でしょ、なぜ先に用意しているの!?」とツッコミの嵐だったから…
振り返って、確かに私が幼少のときから「セリフを大事にすること」は教えられていた気がします。(同世代の方のご記憶も知りたいです)
芸能事務所でも演劇教室でも、まず発声発音、そして滑舌の練習から進んでいました。
当時のみなさんは最善を尽くしてくださっていたと思いますが、
例えば、よくあったやりとりでは、
私「…役がまだよくわかっていなくて……」
演出家「え?セリフは入った?」
という具合に、まずはセリフありき。
言葉の出どころについて、いわば前提についてわかっていなくて困っている段階なのに、結果であるはずのセリフが、それこそどうして入ると思うのか…(半ば機械的に記憶したり解釈をしていれておくことは可能だったが)
親しむという意味も兼ねていたに違いはないが「セリフをまず声に出して読んでみよう」
という、学校の国語のような、リハーサルを設定してしまう。
みんなで共有すべきはリハーサル環境の安全や衛生やプロの仕事としての理念やスケジュール管理や全体的な資料の共有等であり、個々でやったほうが良い作業もあるというのに、だ。
感じやすい俳優、インスピレーションがとんがっている演じ手、ある意味、恵まれている方ほど、みんながいろいろな役を、ただ声にさっそく出して、セリフを言ってみることへの違和感もあると思います。しかし、そういうった「マイノリティー」は無視されやすい。なにを目的に「声に出して読んでいるのか」、ここの自覚から必要です。
さて、
台本には「セリフ」と「ト書き」とがすでに書かれてしまっている。(青写真としては当然ありがたい)
だからこそ困っているのだが(プロの方にはこの意味が痛いほどわかると思います)、
まず「セリフ」が非常に大事であると、歌舞伎や狂言はもちろん、明治以降、近代劇を「輸入」して「翻訳/意訳」したせいもあってか、なおさらだったのでしょう。
私「セリフは入れているところです。『なんでこんなこと言うのかな』と考えていたら、何しにここに来たのか、わからなくなって….」
演出「えーっと、どんな気持ちなの?このセリフを言う時は?」
と「形容詞」で答えられてしまうような「お気持ち」を優先される。
そうです、「(全体の)目的や(シーンでの)目標」を(仮)に決めないまま、半ば役という他人の気持ちを(外から)決めつける形で、
私「…ん〜、ちょっと困っていて、でも他に頼る人がいなくて、話をしたい気持ちで…。」
演出「そうねえ、それもあるかもしれない、確かに、悩んでる。じゃあ、セリフにあるような「打ち明けざるを得なかった」たまらない気持ちもあって..」
と演出自ら「セリフ」に戻っていってしまう!
そして演じ手側も、(この例文を書いている私でも笑ってしまうような)あいまいで、行動の原動力になりえない、状況を外からみた描写に近いものしか浮かばない。
台本には結果が書かれていると知っているからこそ、逆算しているはずが、「順列」で取り組んでしまっているのです。
しかも、どんどん広がっていっている…
これでは稽古は進まない。
ひたすら「広げて、一般化」し、結果(セリフになっている考えや理屈)を描写し、セリフやイベントとして現れている「結果を強調する演技」になってしまう。
これが、欧米系のズバリ!な演出家や監督、専門家やコーチだと話の展開がまったく違う。
私「…役がまだよくわかっていなくて…」
演出家「いつ 〇〇年 〇月〇日の〇〇時で、×が起きて△がAする前で、××によって、自分が△とBして、この後のシーンの展開になる前、という共通認識は
OKだよね?」
私「はい、いつなのか、は大丈夫です。」
演出家「そうか、よかった。〇〇という時間にはこういう(シンボルやメタファー)の意味もあり得るかも。」
私「なるほど!(その意味をどう感じているかを想像したらよさそうだな〜)」
演出「では、このシーンは、あなた(役)がどこからきて、どこに向かう途中のシーンだと考えられそう?この作品の世界で成立するライフスタイル
文化/時代背景)で想像すると?欲しいものは何?ないと誰が困るの?」
と、すでに「役=あなたの行動」を中心に話が展開する。
もう「一人称が前提」です。
私「〇〇にある『自宅』から、〇の所でAをして、Bをしてから、ここに来ました。このあと、もともとは〇〇に行く予定でしたが、このシーンの出来事のせいで、『私』は自宅に帰れなくなって、×へ向かいます。なぜならば….」
演出「そうだった、そうだった、ということは….」
と、また演じ手自身が「役=自分目線で行動を整理」している。
演出「そうそう。だから、ここは役=自分にとってどういう場所?じゃあ相手にとっては何なんだろうか、この場所は?ここ以外の場所でこういう行動に出られるかな?ちなみに、今日じゃないとダメな理由は?ここでなかったら、どこならOKそう?」
私「❗️(あ、そっかーと「個人的な意味」がわかる)」
私「という事は、私はいま、ここに〇〇したくて、(相手から)〇〇して欲しくて、さもないと〇〇になってしまうから…」
上司「そう。だからAという行動をしてみたけど、Bを試して、それでも無理だからCをやるくらい、その目的がどうしても欲しいということだね、で、なんでこの相手なのか?が次なんだけど….」
と、こんな感じで、「目的」を達成するための行動から遡っていって、その場での態度や状況での気持ちやら、その時に掻き立てられる感情時に近づいていく「逆算式」になっている。
広げない。
(仮)に決めながら、「狭めていって」いる。
演出や監督がうまいのは「質問」で、ありえる「答えや模範を出すこと」ではない。
なぜなら、演じるのは演じ手である俳優や歌手で、彼らが当事者の言葉で、自らイメージや意味、類推や連想を膨らませていくのが、
「まるで自分のことかのように」自分目線で想像し、なぜか自分であるかのように「感じて行動していく」近道だと知っているからです。俳優経験がある方ならなおさら。
で、その結果、「自分ごと」としてしゃべり、自分の身体まるごとを感じるためにつかいながら、うごく、という事になる。
演出や監督がすべての登場人物をつくりあげてコピーしてもらうことには限界があり、また他人と一緒に創作する醍醐味も薄れるからです。
最初からセリフ=結果である
ことを忘れず、前提の確認をおり混ぜながら
広げず狭め、一般化せず個人化する。
イギリスでは特に演劇学校などでも、やけに時間がかかるなと最初は感じましたが、そんな私は間違ってました。
自分ごとで想像するための質問をしないから、演じている自分の様子を俯瞰した想像をしてしまうし(恥ずかしい!)、
自分のこととしてしゃべってうごくからには、意味も「一般的なあるある」の共有ではなく、役という個人にとっての意味を具体的に名詞や動詞しなければ、
どうしたって、他人がそとからみてどう感じるかという「状況全体の描写やレッテル貼り」にとどまってしまうのである。
あゝ!
「継続的な練習やフィードバックなしに、逆算して読解や分析のできる方」は少ない
日本から来た私は、当然、論理的な演出家や優れたコーチ、絶妙な監督らの「質問のうまさ」に感嘆しました。
しかし、そうも言ってられない。
自分で自分に質問ができれば、よりリハーサルは建設的に進み、さらに、何を、どう、いつ、誰に、質問するかで、一人一人の俳優の道筋が変わっていることも実感しました。
ただ「逆算する場面」は現実の生活では、あまりにも少ない。
毎日の生活は思い通りならないことも多く、結末を決めて行動できる場面ばかりでもないからです。
そう、とにかく「練習する機会」が日常にはないのです。
結末は決まっていないのが、現実だからです。
私のここ17年間の日本での感覚ですが、十人に一人もおらず、おそらくクラス参加者やレッスンの生徒さんたちの言う通り「狭めて、個人化するためにも、逆算する」読解を教えている方も実践している方も残念ながら、まだまだ少ない印象です。演出も、おそらく欲しい結果をただ要求してします。(俳優や歌手がかわいそう!)
そりゃ、そうです、常日頃は短期の目標、中長期的な目的を自分のために設定して向かっていくことはあっても、そこまで逆算はしない。
できない要素が多いからこそ、修正もするのだが、自分以外の生活の逆算を、わざわざ「ト書きとセリフ」や作家の資料等を頼りに「個人的な意味」や「固有の感覚体験」、それこそ「心象風景」にまでもっていくことはおそらく少ない。
もちろん、心理学的には、誰しも一種の思い込みや決めつけによって、動いている部分もあるという説もあるのだが、大半は無自覚であり、つれづれなるままに、それこそ友人や家族との会話ですら「順列」で考えることが多いでしょう。
だから、「仮に決める」練習が必要で、逆算思考に慣れていなくても、才能のせいではないのです。
俳優や歌手に、「何でもっと気持ちが出せないんだ?!」「もっと感情を出して」と怒鳴っても、
本人として周囲をみておらず、自分ごととして、相手や場所や時間を捉えていないのだから、「わざとらしく強調」してしまったり、
身体を緊張させて「出そう」とがんばることに終始してしまっても、それは演じ手だけのせいではなく、リハーサルの進め方、ひいては読解や分析の基礎からの、全員の課題です。
「逆算する」からには、演出家や監督も、ある程度、欲しい効果や結果が想像できている、あるいは、少なくとも方向性が定まっている必要は生じるでしょう。(それ以上の嬉しいおまけが結果的に現れることは歓迎です)
演じ手だけでなく、スタッフも演出も「自分ごと」でしゃべる人物たちのために、リハーサルの方法やそれこそ順番も、工夫する必要があります。
「逆算せずに、『順列』でリハーサルしたい方、ついつい『形容』して時間をつかってしまうとき、どうするか?!」
上のような状況は、想像しやすいよくあるパターンだと思います。
慣れていないのだから、そして学ぶ場所をみずから作らなければ、当然のことながら、「ついつい出来事や役の様子を形容」することに時間を費やしてしまう方も多い。
良い意図もあるのだろうが、慣れているという理由が強く、「いつまで経っても、ぐるぐる形容している方」も数多いようです。
例えば、ある30代の俳優は、基礎学力にも問題がなく、それなりに舞台の現場もあり、ちょこちょこメディアの仕事もあったが、「逆算する」の練習をしていなかった。
もちろん、やる気はあって、真面目だからこそ、クラスには来るのだが、何度繰り返しても、私の質問には答えず、「劇のあらすじ」と「シーンの状況の形容」で答えたつもりになってしまう。
役の歩き方の研究は自分なりにするが、そういった歩き方をしてしまう理由がわからないのだから、それこそ技巧的。
自分のセリフを熱心にいれ、役のしゃべり声として熱心に聞きはするが、ナルシスト風になってしまう。そもそも、本人(役自身)は聞き耳をたてていないのだから、といった具合です。
そこで私も、数多い養成所の研究生や研修生の傾向も鑑みつつ、なぜ結論から言えないのかを、経験を踏まえて観察しつづけて、今に至っています。
1「思い込み」を強化したい時には「逆算」できない
「この役はこういう人物に違いない」、「きっとこういう気持ちだ!」と想像しやすい方こそ、ご自身がキャスティングされているケースが多々あります。
そりゃ、そうですよね。
残念なことに「優しい、家族想い、親切」とか「正義感にあふれていて、間違ったことが嫌いで、快活」というような形容を増やしたところで、目標や目的へは進めません。だから動機や意図も掴めず、結果、気持ちが動いているようには感じられない。
当然、自分が演じるからこそ、役への思い入れも強くなる。だからこそ、徒然なるままにやろうと思ってはいけないのです。
例えば、先ほどの上のやりとり例文。
いくら、自分がどれほど困窮していて、何にどれくらい悩んでいて、どの程度、どんな相手にいま話を聞いて欲しいかと突き詰めていったところで、
「形容」であり、外からみた様子にしか繋がらない。場合によっては、お客様がみるであろう姿勢や聞くであろう声色を直接に研究してします。
それこそ、この「形容」はステレオタイプや「態度」を断定することにも繋がりかねないので、注意が必要です。しかも直接、結果をやるとするから、奇妙になる。
よくある残念なケースは、この「あらすじ」や「役の様子の形容」を、現代の自分たちの日常の言葉におきかえて、わかったような気になることへも繋がっていた。
熱心であるが故に、むしろ、「いかに細かく丁寧に形容するか」といった、いわば「HOW(どのようにしゃべり、どのようにうごき、どんな顔で、どんな風にな姿勢なのか)に俳優も演出もご執心してしまう。
しかし、これでは欲しいものや目的を(仮)に決めて行動してみるといった、当事者目線で「うごいて感じるための実験」ができない。
だから一層、行き詰まるのである。
したがって、私のクラスでは、質問からそれないよう、枠組みを設けて促します。
半ば「穴埋め」のようにして、答えがそれないよう、(仮)にきめて、狭めていって、個人化する練習をする。
「演じ手」は率直かつ簡潔に、動詞や名詞をつかう回数を増やし、思考回路を、日常のつれづれモードから、作品作りのため、へ変えていく。
したがってこれは、日常の現実とフィクションの違いがはっきり認識できているからこそ可能なプロセスであり、自己暗示や神経症的なアプローチ好きとは相性が合わない可能性がある。
俳優が自分で、役を演じているはずの自分の背中をみたら最後です。
そのビジョンは自意識過剰へもつながります。
2 「見せたい」、「表現したい」、「伝えたい」が三悪
ほんと、申し訳ない!
例えば、「自分が何らかの出来事の渦中にいる最中、これをみてもらいたい!」と切に願うことってありますか?
「自分が普段の自分通りでいられないような時、『あー、この気持ちを表現したい」』と心の叫びはなっていますか?」
いや、なってない。
多くの場合、「それでころではない」か、「うまく隠したい」、「できる限り周囲に伝えたくない」と思う方も多く見受けられます。
「伝えねば!」「わかり易く」は、もちろん演出的な効果や劇作の時点でも重要だが、「本人が思っていること」ではない以上、不自然さや誇張がつきまとう。
「状況を詳細に描写して、セリフで説明すれば、きっと伝わる!」という受け取り手へのご期待が必要以上に過剰な方は、演出や監督から(それこそコーチも)「あなた(役)は誰なの?」「何が欲しい人?何を何に変えたい人?」と聞かれても、答えられない。
「そんなの、答えられないからこそ、芝居なんだ」とご指摘もあるだろうが…
そもそも見えないものを見えるように、聞こえないものを聞こえるようにしなければ、お客様はなにをしていたらいいのだろうか。
みえないのに、言葉(セリフ)の内容を想像し、聞こえないのに、言葉(セリフ)になっていない部分を想像したらいいでしょうか。
というわけで、「自分ごとでしゃべり、うごくことが当たり前になりたかったら、『行動可能』な目的への手段を積み重ねていくのです。
・形容詞ではなく、名詞と動詞にすること
・描写して説明して伝わって欲しいと強く願わず、行動可能な(仮)設定をして、本人の立場から動いてみること
これが、自分ごととして台本を読み、お客様目線で自分の様子を俯瞰しないためのコツであり、
「セリフをいかに言うか」に苦心するような、近代の演技から脱却するポイントです。(いまは現代)
3 習慣にすると、のびのび、イキイキしてくる
第三に、「逆算する」のは、一種の習慣だからこそ、台本の読解の時点から、みんなで同じ内容をシェアして安心するような国語の読解ではなく、「自分の役の立場から読む」もなされていないと、進まない。
しかし、全体の読解(いわゆる事実関係の確認)がおわってから、自分の役の立場から読むということを習慣化した俳優や歌手は、勝手に「感じ」始めた。
その上、「いつ」であるとか、「どこ」であるといったような事実にも、個人的には、つまり自分にとっては、いつで、どこなのか、を掘り下げるようにすると、なお閃いていった。
例えば、登場人物たちのことを話す際にも、相手がいるところでは相手につかっていい言葉で呼ぶが、相手がいない際には、「私が心の中で読んでいる呼称をつかう」といったような点。
こういった工夫で、フィクションの世界である「にも関わらず」、実際の生活でやっている部分を端折らないようにすると、多くの演じ手たちは、自分のやっていることに注意深くなり、自己洞察が深い者ほど、よりこういった一人称の工夫を増やしていく。
ただ、この、役の立場から読んで名付けて、想像する時間を増やすと、演じ手は自分でも気づかなかったような気分や態度が出てきても驚かない。
むしろ、よろこんで、その変化を興味深く掘り下げる。
しかも、フィクションの世界内なので、安全に繰り返せる。だからこそ、演じ手自身はのびのびとしてきます。
そして、例えば、自分の立場からみることのないシーンに立ち合うことや(安全や衛生のためは別です)、毎日全員が稽古場に長時間いることに疑問を持ち始める。
例えば、すべての俳優が演出や監督となにもかもをシェアしまくっていることに疑問を感じ始める。(就労環境や待遇改善等についてではない、創作面の話です)
そうです。
「逆算」し始めると、戦略とでも言おうか、一種のアプローチ方法を吟味するようになるのです。(安易なサプライズ肯定ではありません)
どのシーンから稽古することが、どんな効果を生みそうか、何をやめたら、自分はどこにエネルギーを回せるか、多方向に熟考できるようになります。
それこそ、演出や監督も、誰と誰のシーンを先に(または後で)リハーサルすれば、それをみていた別の演じ手が本人について「気づく」ことへつながりそうか、誰がこの服をみてていいか、誰の「家」に誰が居ても構わないか(休憩時間に安易につかったりしない!)
はい、ここまでが、イギリス(の御三家なら)学部でやるレベルです。
と長くなりましたが、
本日のまとめ
1「思い込み」を強化したい時には「逆算」できない
2 「見せたい」、「表現したい」、「伝えたい」が三悪
3 習慣にすると、のびのび、イキイキしてくる
この3点が、自分ごとで話することと「セリフを巧みに言う」の違いを生み出します。
私も、どれか1つだけでも効果を生むことは難しく、一人だけではなかなか継続できないのもわかります。
また恐ろしいことに、日常から「自分ごと」でない見方、解釈、言葉遣いの方は、役という他人のセリフを自分ごとにする以前に、
まず「一人称で語る」練習を試さなければ実感に乏しいということ。
その自分自身の習慣をスキップして、急に「自分ごととしてしゃべる」へは飛躍できないだろう。
みなさん! よいお知らせ待ってます!
というわけで、8月19日、20日のクラスをご検討の方は、おそらく、あと数名で締め切りますので、おはやめにご相談ください。
キャリアやご所属、これまでご活躍のジャンルに関わらずご応募いただけます。
初めての方はプロフィールや自己紹介もお願いします、楽しみに待ってます。
本日のスポンサードリンク
私が敬愛するシリーズ
舞台だけでなく、映画の方々にも嬉しい一冊です。
対話の秘訣、構造から、ですね。
演技コーチ/ムーヴメント指導・演出・振付/IDC認定インティマシーディレクター/STAT認定アレクサンダー・テクニーク指導者/スピーチ&プレゼンテーションコーチングActing Coach/Movement Direction/IDC qualified Intimacy Director/STAT certified Alexander Technique teacher, mSTAT, Movement Teaching/Speech and Presentation Coaching
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