待望の2作品目が公開されました。
もともと『プラダを着た悪魔』は、ファッション業界を舞台にした映画として楽しまれることが多かった記憶です。
主人公たちのライフスタイルはもちろん、服、靴、バッグ、ヘアメイク、ブランドの見せ方。
もちろん、そこも大きな魅力です。
でも、俳優、歌手、声優の方が見るなら、そこだけで終わらせるのはもったいない。
そんな気がします。
この映画は、職業意識、ライフスタイル、身体のあり方、視線の動き、そして人物がどの世界に立っているのかを考える上でも、とても面白い作品でした。
この記事で具体的に取り上げるのは、主にパート1の冒頭です。
台本読解、脚本分析のつもりで、見てみてください。
映画が始まって、まだ数分。
けれど、もう主人公の現在地が見えている。
例えば、自分の姿がよく見えない小さな鏡で支度をしている主人公。もうこれだけで波瀾万丈の予感がしますよね。
ミランダがどんな人物なのかも、まず足からの登場、足元なんですよ。
彼女が話し始める前から見えている。
そして、これから何と何がぶつかるのかも、はっきり見えている。
さらにパート2まで見ると、時間を経た人物たちの職業意識、立場の変化、ライフスタイル、視線や身体のあり方の変化も見えてきます。
これは、ただおしゃれな映画、主人公が成長する話、素敵な華やかな業界の物語ではありません。
俳優が台本を読む時に、どこを見るのか。
役の人物は、セリフを言う前からどのように始まっているのか。
視線が動き、身体の状態が変わり、そこから動きや言葉が生まれていくとはどういうことなのか。
そのことを考える上で、冒頭の数分だけでも、よくできた作品だと思います。
主人公は、自分の全体をまだ見ていない
パート1の冒頭で、主人公は鏡の前で支度をしています。
ただし、全身が映る鏡ではありません。
顔や一部は見ている。
でも、服を着た自分の全体は見えていない。
もうこれ自体がメタファーです。
その姿が、これから入っていく職場や社会の中でどう見えるのか。
自分がその世界に入る準備をどこまでできているのか。
そこまでは、まだ見えていない。
ここがまず辛辣です。
これは、単に「ファッションに無頓着な女の子」という描写ではありません。
自分の全体を見ていない人物として、最初から描かれている。
支度しているつもりで、その世界に入る準備にはなっていない。
見ているつもりで、見えていない。
ここに、人物の現在地が出ています。
恐ろしいですね。
世界の名作の演劇と同じようなパンチがあります。
朝の支度は、人物紹介になっている
一方で、ファッションの世界で働く女性たちは、下着、服、髪、靴、バッグまで、今日の自分をどう見せるかを選び取っています。
これは、単なるおしゃれの差ではありません。
価値観の差です。
身体の扱い方の差です。
自分が社会の中でどう見られるかに対する意識の差です。
主人公は、初めての職場に向かう朝なのに、朝ごはんを食べながら街を歩いています。
少し小走りで、時間にも余裕がなさそうに見える。
本人は普通にしているつもりかもしれません。
でも、ドラマとして見ると、もう行動に出ています。
相手の世界をまだ調べていないこと。
自分の価値観だけで入ろうとしていること。
これ、まだ慣れない方、お若い方のオーディションでもあるかも…
服装、匂い、時間、身体の見え方、相手の価値観を、その職場に入る準備としてまだ扱えていないこと。
でも本人はそんなつもりはないんですよね。
主人公をそういうふうに紹介するところに、既にこの映画の厳しいところが実は出ていませんか?
その人物の未熟さや無自覚さは、説明ではなく行動で見えているのです。
そう、主人公のインタビューでのセリフも、ほほえましくて、可愛いけれど、実際、相手からしてみれば「とんちんかん」ですよね。
自分らしさと準備不足は違う
ここで大切なのは、自分らしさと準備不足を混同しないことです。
自分の価値観を持つことと、相手の世界を調べないことは違います。
自分らしくいることと、服装、時間、匂い、身体の見え方、相手の価値観に無自覚でいることも違います。
(辛辣ですが、自戒を込めて…)
これは、俳優が役の人物を準備する時にも、とても大事です。
この人は自由な人なのか。じゃあその意味は?
それとも、相手の世界をまだ見ていない人なのか。
この人は自然体なのか。裏表がある?
それとも、その場に必要な準備ができていない人なのか。
自分で思っている自分と相手から見えている自分の差は?
このような違いを曖昧にしたまま演じると、人物がぼやけます。
「この人は明るい」
「この人は不器用」
「この人は自分らしい」
「この人は強い」
こんなふうに言葉にして納得してしまうと危ないです。
そういう外から見える、性格の説明だけでは、演じる準備としてはまだ足りません。
このような決めつけだけで、描かれている状況に立つことはできません。
何を見ていないから、そう動くのか。その原因は?
何を軽く扱っているから、その場でズレるのか。何か解決方法はある?
何には慣れていて、何には無自覚なのか。それがどこで回収されるのか?
そこまで見ると、人物の現在地が具体的になります。
ファッション業界の話に見えて、職業意識とライフスタイルの話でもある
この映画は、舞台設定がファッション業界になっています。
だから一見すると、キャリアアップの話、デザイナー、服に詳しいかどうか、おしゃれに関心があるかどうか、そして友情や恋愛も絡まって、主人公の成長の物語にも見えやすい。
でも、広く見ると、これは職業意識やライフスタイルの話でもあります。
その仕事に関わる人が、何を大切にしているのか。
どんな時間感覚で動いているのか。
自分の身体や見え方を、どこまで仕事の一部として扱っているのか。
その業界、その職場、その相手に向き合うために、生活のどこまでが準備になっているのか。
そこが問われている映画でもあります。
主人公は、ファッション業界に入るから問題なのではありません。
自分が入ろうとしている世界の価値観を、まだ十分に見ていない。
その世界で働く人たちが、何に時間を使い、何を選び取り、何を職業上の責任として扱っているのかを、まだ自分の問題として受け取っていない。
ここが、かなり考えさせられるところです。
これはファッション業界に限った話ではありません。
俳優でも、歌手でも、声優でも、ダンサーでも同じです。
現場に行く。
オーディションに行く。
リハーサルに入る…
その時に、自分が気になっているセリフや大事な歌やダンスだけを準備していれば十分なのか。
自分の身体の状態、声の状態、生活のリズム、時間の使い方、相手や現場への理解まで含めて、どこまで準備として扱えているのか。
そこに、職業意識が出ます。
『プラダを着た悪魔』は、舞台がファッション業界だから華やかに見えます。
もちろん素晴らしいデザインや徹底した美意識もあるでしょう。
でも実際には、仕事にどう入るのか、世界の価値観をどう受け取るのか、自分のライフスタイルごとどう変わっていくのかを描いている映画でもある。
そして、なかなか辛口ですよね…
だから、パート1もパート2も、単なるファッション映画としてだけではなく、表現者にとってもかなり考えさせられる作品だと思います。
パート1とパート2を続けて見ると、人物の変化が身体に見えてくる
パート1で見えているのは、これからその世界に入っていく人物の現在地です。
自分がどう見えているのか。
その職場の価値観をどこまで理解しているのか。
自分の生活、時間、身体、服装、声の出方まで含めて、どこまで仕事の準備として扱えているのか。
そこが、かなり辛辣に見えてきます。
一方で、パート2まで見ると、人物たちが時間を経てどう変わったのかが見えてきます。
年齢を重ねたこと。それを本人や周囲がどう感じているか。
立場が変わったこと。その影響。
仕事との距離が変わったこと。
自分の見せ方が変わったこと。変わってない部分。
相手を見る目が変わったこと。
それらは、セリフだけで説明されるものではありません。
視線に出ます。あらゆる動き、身体の余裕や緊張に出ます。
顔、胸、肩、腕、指先の状態に出ます。
歩き方、止まり方、相手との距離の取り方にも出ます。
だから、パート1とパート2を続けて見ると、単なるファッションの変化だけではなく、人物の現在地の変化が見えてきます。
どんな服を着ているかだけではなく、その服を着た身体が、どんな感覚でその場に立っているのか。
どんな視線で相手を見るのか。
見た瞬間に身体の状態がどう変わるのか。
そこから、動きやセリフがどう生まれるのか。
ミランダは、顔の前に足元から始まる
そして、パート1のミランダの登場も見事です。
顔からではなく、足元から始まる。
ここがとても秀逸です。
もちろん、彼女が持っているバッグも、身につけているものも、その時代のファッションの文脈を背負っています。
でも、登場の最初に見せるのは顔ではありません。
足元です。
どんな靴で、その場所に入ってくるのか。
どんな速度で歩くのか。
どの地面を踏んでいるのか。
その場にいる人たちが、どこから彼女の存在を察知するのか。
ミランダは、顔を見せる前から、すでにその場を支配しています。
足元が映った時点で、彼女の存在、階級、権力、緊張感が始まっている。
人物は、顔だけで始まるわけではありません。
セリフだけで始まるわけでもありません。
足元、歩き方。靴、バッグ。
周囲の反応、そして場の空気が変わる瞬間。
そこに、人物の社会的な力が出ます。
ここで私が思い出したのは、以前、ロンドンで観た演劇の舞台カフカの「審判」、映画でも活躍しているローリー・キンナー主演でした。
これも、最初の数分で、どこへ向かってるかがすぐわかる、超目的がズバリ!突き刺さっていました。
さて
主人公とミランダの対比は、会話の前に立ち上がっている
主人公は、自分の全体をまだ見ていない。
ミランダは、足元から世界を変える。
この対比が、本当にうまい。
片方は、自分がどう見えているかをまだ見ていない。
もう片方は、顔を出す前から周囲に見られ、察知され、場を変えている。
ここに、映画の対立構造がすでに立ち上がっています。
誰がどこにいるのか。
何を見ているのか。
何を見ていないのか。
何に価値を置いているのか。
何と何がぶつかりそうなのか。
主人公がどこから始まり、どこへ変わっていきそうなのか。
そして、どの人物がその世界の中心にいるのか。
映画が始まって数分も経たないうちに、そこまで見えてくる。
説明ではなく、鏡で見せる。
セリフではなく、朝の支度で見せる。
人物紹介ではなく、服、身体、時間の使い方、歩き方、リサーチ不足で見せる。
権力の説明ではなく、足元と周囲の反応で見せる。
ここが、ドラマの作り方として本当にうまいところです。
ほんと、爽快です。
視線が動き、身体全体が変わり、そこから動きやセリフにつながる
もう一つ、この映画でとても大事なのは、人物の身体全体のつながりです。
人物が何を見るのか。
何を見た瞬間に、身体の状態がどう変わるのか。
感じたことが、顔だけで止まらず、胸、肩、腕、指先へどうつながっていくのか。
そこから、次の動きやセリフが生まれている。
『プラダを着た悪魔』の冒頭では、それがとてもはっきりしています。
主人公は、まだ自分の全体を見ていない。
周囲の人たちは、服、髪、靴、バッグ、時間の使い方まで含めて、自分がその場でどう見えるかを選び取っている。
ミランダが近づいてくると、周囲の人たちの視線が変わり、身体の状態が変わり、空気が一気に変わる。
それは、目線だけの変化ではありません。
顔つきが変わる、呼吸も変わる。だから声も変わります。
胸や肩の状態が変わるから、腕や手の使い方が変わる。
指先の緊張や扱い方まで変わる。
その小さな変化の連なりが、その場の緊張感や人物同士の力関係を見せています。
つまり、人物はただ歩いているのではありません。
何かを見ている。本人はどんなつもりか?
何かを察知している。それはなぜなのか…
そして、その感覚が身体全体に広がり、動きや声やセリフにつながっている。
これは、俳優にとってとても大事な視点です。
セリフをどう言うかの前に、何を見たのか。
何を受け取ったのか。
それによって身体がどう変わったのか。
この順番が見えると、演技は説明ではなく、出来事になります。
映像でも舞台でも、感じていることは身体全体に現れる
これは映像でも舞台でも、とても大事です。
映像では、顔や指先の小さな変化がカメラに映ります。
舞台では、空間を埋めることはもちろん、その変化が身体全体を通して客席に届きます。
どちらの場合も、感じていることが身体のどこか一部で止まってしまうと、表現は薄く見えやすい。
反対に、見たこと、感じたこと、受け取ったことが身体全体につながっていると、動きやセリフに必然性が生まれます。
俳優が台本を読む時も、ここは見ておきたいところです。
この人物は、今どこを見ているのか。
何を見たことで、身体の状態が変わったのか。
その変化は、顔だけなのか。
腕や手、指先にまでつながっているのか。
そして、その身体の変化が、次の動きや言葉にどうつながっているのか。
歌も、喉だけで生まれるものではありません。
見たもの、感じたこと、受け取ったことが身体全体に起きて、その結果として言葉や声が出てくる。
そこまで読むことができると、人物はセリフの前から、もっと具体的に立ち上がってきます。
結果的に、俳優や歌手であるご自身も、キラキラし始めるのです。
台本を読む時、セリフの意味だけを追っても人物は立ち上がらない
言葉の意味を読むことは大切です。
でも、それだけでは足りない。
その人物は、何を見ているのか。そして、自分の全体をどこまで把握しているのか。
どの価値観の中にいて、何と対立しているのか。
何を見たことで、身体の状態が変わるのか。
その身体の変化が、動きやセリフにどうつながるのか。
そこまで見ると、役の人物の現在地が具体的になります。
「この人は真面目な人」
「この人は自信がない人です」
「この人は強い人です」
そう説明することはできます。
けれど、演じる時に必要なのは、その性格説明よりも、具体的な行動の手がかりです。
何を見ていないから、入ってくる時にその身体になるのか。
何を気にしているから、相手の前でその速度になるのか。
何を大事にしているから、その服装、その姿勢、その声の出し方になるのか。
そこを読んでいくと、人物はセリフの前から動き始めます。
こういった具体的な内容を、毎月異なる映画や舞台の脚本、台本を使って、少人数で私のクラスでは身に付けていってもらえます。
身体のあり方に、人物の立場が出る
人物がどこから現れるのかも大切です。
顔からなのか、声からなのか。
足元からなのか、周囲の反応からなのか。
ただ、それは「登場の仕方」だけの話ではありません。
その人物の身体のあり方に、立場が出るということです。
どんな靴でその場を踏むのか。
その場にいる人たちが、その人物にどう反応するのか。
その人物は、遠慮してその場にいるのか。
当然のようにその場にいるのか。
相手に気づかれたいのか。一体何が変わるのか?
このように具体的にしていくと、個人になっていきます。
その場を乱すのか、その場の中心にいるのか。
それとも、端に追いやられているのか。
こうしたことは、身体に出ます。
同じ「そこにいる」でも、人物の立場によって、身体も視線も速度も変わります。
ですから、演じる側の、感覚が磨かれていることも重要になっていくのです。
足元を見ると、人物の社会的な位置が見えてくる
「足元を見る」という言葉があります。
ここでは、比喩としても使えます。
誰が、どんな地面を踏んでいるのか。
どんな靴で、その世界に立っているのか。
その場所に慣れているのか。
自分の場所だと思っているのか。
借り物の場所だと思っているのか。
当然、受け入れられると思っているのか。
これは、実際の靴や歩き方だけの話ではありません。
その人物が、どの価値観の上に立っているのか。
どの集団のルールに慣れているのか。
そこを見るということです。
『プラダを着た悪魔』の冒頭は、まさにそれを視覚的に見せています。
主人公は、自分の全体をまだ見ていない。
ミランダは、足元から場を変える。
この差が、これから始まるドラマの土台になっていましたね。
2026年の2ご覧でない方も、楽しみながら、ご確認ください。
俳優は、人物の「現在地」を読んでおきたい
役の人物を準備する時、多くの人は「この人は何を感じているのか」「どんな性格なのか」から考え始めます。
それも大切です。
でも、それだけでは人物が宙に浮きやすい。
まず見たいのは、その人物の現在地です。
その場所に慣れているのか、それはなぜなのか
何を大切にしているのか。その理由の可能性は?
その場に入る準備ができているのか。いつからなのか?
周囲からどう見られているのか。
何を見たことで、身体の状態が変わるのか。
感じたことが、顔、胸、肩、腕、指先までつながっているのか。
人物の現在地が見えてくると、演技は具体的になっていきます。
このような可能性とそうした選択が、性格の説明ではなく、状況と身体の変化から生まれてきます。
対立構造は、会話が始まる前から立ち上がっている
ドラマの対立構造は、言い争いが始まってから生まれるわけではありません。
会話が始まる前から、もう立ち上がっていることがあります。
たくさんあるので、全てを羅列はできませんが、服装。
時間の使い方。
持ち物と視線。
誰が、いつから、何を、見られているのか。
誰が、なぜ、どこが、見えていないのか。
誰がその場を支配しているのか…
そうしたものが、セリフの前から対立構造を作っています。
だから、台本を読む時には、「何を言っているか」だけでなく、「何がすでに起きているか」を読む必要があります。
その場に入ってくる前に、人物は何をしていたのか。
その場に入った瞬間、何が変わるのか。
本人はその反応を受け取っているのか…
このような視点で見ると、セリフはただの言葉ではなくなります。
台本を読むこと、ワクワクしてきませんか?
役の準備は、性格を決めることではない
役の準備は、性格を決めることだけではありません。
「この人は明るい」とか「この人は冷たい」
「この人は強い」、「この人は優しい」
そう決めるだけでは、実際の場面で動けないことがあります。
なぜなら、人物は性格だけで行動しているわけではないからです。
場所もちろん、その性質
お相手、社会的な立場、いわゆる職業など。
過去の経験、
その場のルール。
準備不足、期待。
緊張、身体の状態….
それらが重なって、人物の行動になります。
『プラダを着た悪魔』の冒頭が見せているのは、まさにそこです。
主人公は、ただ「ファッションに興味がない人」なのではない。
その世界に入る準備が、まだ整っていない人として見えている。
ミランダは、ただ「怖い上司」なのではない。それは本当に一部。
顔を出す前から場を変えるほど、その世界の中心にいる人として見えている。
この違いが、人物を具体的にしています。
もっと具体的に、演じてみたく、なってきませんか?
セリフの前に、人物はもう始まっている
人物は、セリフを言い始めてから始まるわけではありません。
その場に入る前から、もう始まっています。
何を着ているのか、どこを見ているのか。
その人物が入ってきたことで、空気は変わるのか。
それとも、誰にも気づかれないのか。
感じたことは、顔だけで止まっているのか。
それとも、胸、肩、腕、指先までつながっているのか。
そこに、役の人物の手がかりがあります。
でも、人物は説明の前から始まっている。
ドラマは、会話の前から始まっている。
対立構造は、言い争いの前からすでに立ち上がっている。
そこを見ることができると、演じる準備は一気に具体的になります。
台本を読むとは、人物がどこに立っているかを見ること
台本を読むというのは、いつ、どこで、人物が、何のために、どこから来て、立っているのかを見ることです。
その人物が、何を見て、何を見ていないのか。
例えば、何を大切にしていて、何を軽く扱っているのか。
どんな世界に入り、どんな価値観とぶつかるのか。
どんな足元で、その世界に立っているのか。
何を感じ、その感覚が身体全体にどう広がっているのか。
そこまで読むと、役の人物は「考えた設定」ではなく、場面の中で動ける存在になっていきます。
『プラダを着た悪魔』の冒頭は、その見本として本当にうまい。
自分の全体を見ていない主人公。
自分をどう見せるかを選び取る人たち。
足元から場を支配する人物。
視線と身体の変化で立ち上がる緊張感。
職業意識とライフスタイルの違い。
そして、これからぶつかる価値観。
それらが、説明ではなく、行動と身体と物と空間で見えてくる。
俳優が台本を読む時も、ここを見ておきたいのです。
セリフの前に、人物は始まっている。
そして、その人物がどこに立ち、何を見て、身体全体で何を感じているのかを読むことが、演じるための準備につながっていきます。
映画を入口に、演技の準備を見直してみる
演技のクラスというと、少し難しそうに感じる方もいるかもしれません。
台本読解。
身体と声。
役の準備、相手との関係。
そう聞くと、専門的で、自分にはまだ早いと思う方もいるかもしれません。
でも、映画を見ている時、私たちはすでにたくさんのことを受け取っています。
この人物は、なぜ今そこで止まったのか。
なぜ、その視線になったのか。
なぜ、言葉を出す前に空気が変わったのか。
なぜ、その人が入ってきただけで、周りの身体が変わったのか。
そう感じた瞬間があるなら、それは演技を見る力の入口です。
そして、その入口は、そのまま自分が演じる時の準備にもつながります。
映画の中で見えていたことを、自分の身体や声でどう扱うのか。
台本を読んだ時に、人物の現在地や身体の変化をどう見つけるのか。
そこを一緒に扱うのが、演技のクラスや個人レッスンです。
難しい理論を覚えるためではなく、見えていたものを、自分でも使える感覚にしていく。
そのための時間だと考えていただくと、少し入りやすくなるかもしれません。
台本読解を、身体と声の感覚につなげたい方へ
個人レッスンやクラスでは、セリフの意味だけでなく、役の人物の現在地、相手との関係、場面に入る前から起きていることを一緒に整理していきます。
ただ、台本を読むことと、実際に身体や声でその場に立つことは、別の段階です。
相手に向かっているつもりなのに、身体が固まる。
視線は動いているのに、身体や声がついてこない。
感じているつもりなのに、顔、胸、肩、腕、指先まで変化がつながらない。
セリフや歌になると、呼吸や声が自分の中にこもる。
そのような時は、考え方だけでなく、身体のあり方や感覚そのものを見直すことが役立ちます。
6月29日(月)13:00〜15:30には、俳優・歌手・声優の方に向けた「身体と声のセミプライベートレッスン」を開催します。
6月29日(月)開催|身体と声のセミプライベートレッスン
このクラスでは、アレクサンダーテクニークの考え方をベースに、表現に必要な身体のあり方、呼吸、声の出方、視線や感覚の使い方を、少人数で丁寧に扱います。
声をもっと出そうと頑張る前に、身体がどう立っているのか。
セリフや歌を届けようとする前に、感覚がどこまで開いているのか。
何かを見た時、感じた時に、顔、胸、肩、腕、指先まで身体全体がどう変わるのか。
その変化が、動きや声にどうつながるのか。
そこを確認することで、表現の土台が変わっていきます。
詳細・お申し込みはこちら
https://kaorukuwata.com/body-voice-semiprivate-lesson-20260629/
個人レッスンで相談したい方へ
日程が合わない方、またはご自身の課題を個別に扱いたい方は、個人レッスンでもご相談いただけます。
台本読解から、役の準備。
身体と声の使い方、オーディション前の整理。
現場前の準備や相談…
俳優や歌手の方も、歌やセリフになると身体が固まる時の見直し。
一人では気づきにくい身体の使い方や、役の人物としてどこに立つのかを、アレクサンダーテクニークの考え方をベースに、一緒に確認していきます。
セリフの前に、人物は始まっています。
そして、その人物がどんな身体で、どんな感覚で、その世界に立っているのか。
そこを実際に身体と声で確かめたい方は、クラスまたは個人レッスンをご活用ください。
この記事を書いた講師
鍬田かおる
指導歴20年+
演技コーチ。俳優・声優・歌手の方に向けて、台本読解、セリフ、身体と声、ムーヴメント、アレクサンダー・テクニーク、ラバン、現場やオーディションに向けた準備などを、多角的に扱う演技指導を行っています。
セリフを覚えることだけでなく、役の人物が何を見て、何を受け取り、何を選び、どのようにシーンの中で変化していくのかを、台本・身体・声・視線・間・関係性を通して具体的に見直していきます。
詳しいプロフィールは、ホームページのプロフィールページをご覧ください。
クラス案内・個人レッスン・講師依頼について
鍬田かおるの演技指導では、俳優・声優・歌手の方に向けて、台本読解、セリフ、身体と声、ムーヴメント、オーディション対策、現場に向けた準備を扱っています。
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演技コーチ/ムーヴメント指導・演出・振付/IDC認定インティマシーディレクター/STAT認定アレクサンダー・テクニーク指導者/スピーチ&プレゼンテーションコーチングActing Coach/Movement Direction/IDC qualified Intimacy Director/STAT certified Alexander Technique teacher, mSTAT, Movement Teaching/Speech and Presentation Coaching



