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「イキイキと役として行動できる演じ手」と「残念な演技の方」のちがい

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イギリスに近い寒さが戻って、なんだか懐かしい鍬田かおるです。

こういう寒い日に通学して、スタジオでウォームアップして、あーでもないこーでもないと試行錯誤の日々だったなと懐かしく思います。

 

さて、私の専門の一つである演技とその指導….

研修期間や養成所、そしてあちこちで様々な先生方と一緒にクラスやワークショップを行う中、この15年ほど、

私は「演技が役の人物(当事者)として、実際に感じて、動いて、見て聞いて、喋っている『イキイキと役として行動できる演じ手』」と

「他人のふりを表面的にしている『残念な演技のままの方』」の間にはとてつもない差があると感じてきました。

思いがけないドラマの状況で、非日常であるにもかかわらず「まるでその人物が、この世界のどこかで生きているかのように」見て、聞いて、行動して、生き生きと見える俳優や歌手と、

「いかにも大切そうに、明瞭にセリフを言うのだが、どうにも信じられない」(いわゆる)芝居臭くて、せっかく一生懸命なはずなのに、ちょっと恥ずかしい方がいるのか…?

最初は昔から言われてきたように、練習が足りないせいだろうとか、練習の内容がなんとなく違うんだろうなとか、キャスティング?…そのぐらいしかわかりませんでした。

20年以上前の私はともすると、「生まれつき」の才能のようなものなのか?

「どの段階で、やっていることがおかしいのか」、もしかしたら「演じ手自身の何か性格的な要因があるのか」などと、一般的でぼんやりしたイメージを抱いていたのも事実です。

 

ほんと……スミマセン!

 

しかし、世界各地でいろいろな方々から学び、そして私自身、自分のクラスやレッスンに来てくれる熱心な俳優や歌手の方と一緒に取り組むことで、年々明らかになって言ったのは、目に見えない才能やら、耳にも聞こえないような適性と呼ばれるあいまいで個人的なものではなく「人間が実際にやっていること」「人間が(実際は想像や疑似体験における感覚を通じて)やっていないのに、やっているかのように振る舞うこと」との大きなちがいではと思うようになりました。

私が子供の頃から(!)いわゆる巷には色々と「演じるためのコツ」があふれていますが、

・人前で臆せずに、役の人物の所作やジェスチャーがいかにも「それらしく」その「役らしく」みえて、素敵か、かっこいいか、またはかわいいか、美しいか、ウケるか

・いかに「自分の考えと気持ちを『こめて』、大切な「セリフを大切そうに。大事そうに価値ありげに言う」か

という付け焼き刃的かつ自己満足な部分よりも、

結局のところ「『お客様』の立場を早々に諦めて、自分事として役の人物の目を通じて、世界や他人をみて動けるかか」ということに尽きると感じています。

そして現時点では、以下の7つが重要との考えです。



「イキイキと役として行動できる演じ手」と「残念な演技のままの方」のちがい

1 逆算思考で「結果」から取り掛かるか、「積み重ねて」取り組んでしまうのか…
例 「次の作品は何ですか?どんな役なの?」と聞かれたとき

最終的に役として行動しやすい演じ手は(無意識であっても)「次の作品はメアリー・シェリー原作のフランケンシュタインです。人間を創り出すことに成功したはずのヴィクター・フランケンシュタインが、自ら産み出した『怪物』と対決し、婚約者を殺されたのち、二人は北極にまで辿り着き、そして死に至る」と主人公(自分の役)の主な出来事を中心に、ダイジェストにして語ります。

途中「『怪物』は村の盲人やその隣人や書物から言語を学んで、ヴィクターに会いにくる。自分にも『人間』と同じように『嫁が欲しい』と要求され、ヴィクターはその伴侶を作り始めたが、やはり破壊したため、ヴィクターの妻は『怪物』に殺され、二人は対決し、怪物を北極までおいかけていき…」と通過すべき大きな出来事

=場面ごとの中間地点での「結果」をハッキリ意識しています。

「残念な演技のままの方」は、「ヴィクターという裕福な家に育った好奇心旺盛な科学に魅了された若者がいて、兄弟がいて、父親とはうまくいっておらず、母親はすでに他界し、そして婚約者のエリザベスが…」ととにかく「状況の形容」が長い。

熱心さゆえのはずだが、「ついにはお墓から死体を掘り起こして、生命の創造の実験をしていて、婚約者ともうまくいっていない、そんなある日『理想の人間』を作ろうと自室にこもって実験を重ねていたところ….」と肝心の「お相手」すらなかなか出てこない。

さらに、よかれと思ってだろうが「『怪物』は最初はとある村でたまたま….そしてその老人と息子夫婦の隣人には….そして…」と、状況把握は正しくはあるのだが、1つ1つ「読み手やお客様が内容を知っていく順序で」追っています。「追ってちゃ、ダメ」です。小説や映画など、自分が「順を追って」を楽しむ場合は問題ないのですが、これでは「どこへ向かっている」のかわからない。

行き先がわからない「乗り物」に乗っていませんか…?

クリエイティブってそういうことでしたっけ?(ありがたいサプライズは幸運なおまけと考えておくほうが安全では?)

いわゆる「超目的」や「サブテキスト」を考えるにしても、通過すべき点がわからないと困りませんか?

「積み上げ式」は日常生活では当然、結末なんぞ決まっておりませんし、もちろん健やかで良いのですが、創作で想像した結果以上のものが欲しかったら、まず「通過したい点」を(仮)に選びましょう。

(仮)はいつでも変更して、実験の再開が可能です。



2「名詞と動詞」で捉えるか、「形容詞」で説明するか
例 「役の人物は実際、誰なの?この人の特徴は?」など質問されたとすると

イキイキと役として行動できる演じ手は、まず「自称『研究者』のヴィクターは、死者の身体を墓場から夜な夜な掘り起こし…ついに生き物を想像するが….」など事実からスタートします。

「セリフで言っていること」からではなく、「行動」として事実やっていること、起きたことにフォーカスを絞り、事実を根拠に推測へ進みます。

その際、「怪物(生き物)はヴィクター。フランケンシュタイン一人から生み出された」と具体的に、ヴィクターが医師や大成した科学者でないこと、母親なる存在の否定といった裏面が明らかになる肯定文で表現します。

「また書物を読み聞かせ、言葉を教えてくれた盲目の老人とその息子夫婦、隣人家、そして村の人々から迫害され差別を受け、ヴィクターを探しあてて自分の伴侶をつくってくれと訪ねて来た」などのように、具体的かつ行動可能な「動詞」で捉えます。

残念な演技のままの方は、「お金持ちの家に生まれたヴィクターは、理想的な人間をつくろうと一生懸命な若い科学者で、綺麗な婚約者がいるが、研究に夢中になっている。」などと事実と解釈と推測を混ぜて語ります。「誰がお金持ちだと決めたのか」も「どの程度」、「何と比べて」裕福なのかも不明です。

「理想的な人間」は誰が決めたのか、実際どうなったのかもわからないまま、どんどん形容詞と状況の説明が長くなります。

「一生懸命な若者」なんぞは「行動」できません。なんとなく「綺麗な婚約者」とか「熱心な研究をしている」なんてイメージを知っていても、シーンに登場することはできません。

いつ、どこで、誰と、何のために、何を「する」のか、具体的な「動詞」に着目しましょう。


3「変化」をビフォー・アフター含めて具体的に捉えているか、「その時、その場ごと」の状況で演じようとしているか
例 「このシーン(または出来事やお相手の言動)の前と後で何が変わっていますか?」と聞かれたとき、

イキイキと役として行動できる演じ手は「私は子どもから孤児になった」とか「相手が親から敵になった」のように、何が何へ変化したのかを端的に指摘します。

「自分は生みの親に会いたくて会いに来て、ようやく会えたと思ったのに、言葉も話せるのに、歓迎されなくて….」だとか「周囲の人たちをみてもそうだし、相手もそうだから、当然自分にも伴侶が欲しいと思って訊いたら、急に….」と、状況の説明に戻ってしまうと、「変化」の前も後も「行動」が絞れないので、実際に何をしていいかがわからないまま、うろうろしてしまいがち。

状況の把握は仕事の前提です、仕事が進んでいるときに、戻らないようにしましょう。

ジャンルやスピードや頻度はさておき、当事者として演じる仕事の要は「変化」です。

ビフォー・アフターで名詞をつかって明瞭にしてみてください、行動の基準が変わります。


4「個人化」して想像するか、一般化して「あるある」を探すか

シーンで、役が何のために、どんな行動しているかを(仮)に決めてイキイキと役として行動できる演じ手は「個人的な事情に向かいます」。

前述3のビフォー・アフターとともに、「個人化」して、目的へ向かい、大量にあった動機や意図をシーンごとに数個ずつに絞っていきます。

残念な演技のままの方は、引き続き「状況」から行動を推測しているので、「ニュースの印象などから、よく起こりやすい(と思い込んでいる)こと」「ご自分の身の回りで起きたこと」「一般的によくある展開」の了解を周囲からも取ろうと試みます。

「状況はあり得そう、かつてあった、あったのかもしれない、もしかしたらあり得るかもしれない、なさそうと思っていたけど、あるのかも」がドラマティックの基本です。

劇や脚本の作家の仕事をなぞるのではなく、「何の事情で」という個人的な理由へ向かいましょう。

具体的に想像すればするほど、感情や感覚が動き出します。



5「役の人物という他人」と重なる部分を掘り下げていく方、違いを不快/悪とする方…

例  自分がキャスティングされた役の人物が殺人を犯す場合…

『イキイキと役として行動できる方』はまず「殺人」の可能性があるものとして想像を始めます。

「殺人をしたことも、しようと思い立って行動したこともないが、もし、できたとしたら、するとしたら、一体全体どう言う経緯で?もしあり得たかもしれないとしたら….」という肯定から入ります。

次いで、「もしも、ここで」「もしかしたら、いつ」「あり得るとしたら…」といった具合に、「何が私(役)に相手を殺させるのか」と具体的な行動へ進みます。

残念な演技のままの方は、いきなり「いや、いくらなんでも殺人は酷い」とか「殺人なんてあり得ない」などの倫理や社会的規範に基づく「断罪」を行います。

だから、余計に共感できないし、まさか自分がそんな役を演じるとは…と役と向き合って批評して、共感しないで、批判的に考えます。

役と向き合ってはいけません。役と同じ方向を向きましょう。

役は批判の対象ではないのです。


6「共感ベース」か、「同意」を必要とするか
例えば、劇のピークの前後のシーンで「これらのセリフをつかってやっていることは何?腹の底で抱えている気持ち、ほんとは一番相手に言いたいこと、心の叫びみたいなものはありますか」?と聞く。

イキイキと役として行動できる演じ手は小学生でもわかるような平易な言い回しで、具体的かつ簡潔に「私にも父親と母親が欲しい!」とか「今日も明日も明後日も一緒にいてよ!隣にいてよ」とスパッとしている。

「なぜ今なんですか?どうして、今ここで?」といったさらに具体的な質問へ移っていっても、「さっき◯◯で、▲さんと▷さんが一緒に歩いていたのを見た」であるとか「先月読んだ本に〇〇と書いてあって✖️✖️に気づいて、こう考えていたら….」と「変化」と「具体的な体験」が出てきます。

残念な演技のままの方は「どうして〇〇してくれないの?そんな顔しないで。もっと話を聞いて欲しい。ちゃんとしてよ」などあいまいな「セリフの言い換え」になってしまっています。

内容を理解したいとき、自分ごととして感じたいとき、演じ手はセリフのいいかえをしたいのではありません、セリフが出てくる原因が欲しいのです。

未だに「自分の普段の言葉づかいにしてみよう♪」と張り切る方がいますが、同じレベルのままになるので(深まらない、具体化しない、個人化しない)、効果はあまり望めません。

演じるということは「行動」することです。

置き換えに時間をつかうのは得策ではありません。



7 「広げる」か「絞る」か
例 役の人物がどういう人なのか、どんな生い立ちで、ライフスタイルや交友関係、価値観などを言語化するとき

イキイキと役として行動できる演じ手は(仮)であっても生まれたとき、1歳のとき、何を食べて、誰と、どの本を読んで、お気に入りの場所は〇〇で、一番長い時間やっていた活動は読書で、などと数字も含めて、具体的にハッキリと設定して語ります。

残念な演技のままの方は、想像を広げるのは最初は良いのですが、リハーサル10日経っても、台本をもらって何週も経っても「よくわからない人」という前提か安易に「ドラマの状況でよくある反応をする人」のように考えていて、お稽古やリハーサルで、残念ながら「うーん、やっぱりこういう可能性もあるかも?」と選択肢を増やします。

その上、「やっぱりどうして追いかけていくのかが分からない」と役という人物の言動の「否定」が前提で、頑固にご自分のご意見にこだわることがあります。

雑談やプライベートならいいのですが、「理解しえない人」と捉えた距離のまま、役へ近づく努力をしないなら、そもそも「演じたいのか」を確認することが必要になり、キャスティングされた理由すら危ういです。

「自分ごと」は前提です。自己洞察を深めて、役と同じ方向を向きましましょう。

 

*2023年も毎週土曜11:00-12:00のオンライン「身体のミニクラス」は続きます。

登録制ZOOMで、姿勢をチェックしつつ、体幹をいれて、筋トレして、ウォームアップののちに、ストレッチしてスッキリする習慣です。

新規参加者も募集中です。オンラインですので、お気軽にどうぞ!

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